確率の解釈と量子力学の関係

 科学的な非決定論の代表となれば量子力学ですが、量子力学と確率の解釈はどのようになっているのでしょうか。まとめてみると、次のようになりまする。

1確率の客観的解釈:確率は物理的な対象のもつ性質を表していて、次の二つの解釈が考えられてきました。

(1)相対頻度:確率は対象の集団がもつ性質を表しています。

(2)傾向性:確率は単一の対象のもつ性質を表しています。

言明「電子Aが上(あるいは下)のスリットを通り抜ける確率は1/2である」について、(1)と(2)の解釈によると、それぞれ、

 電子Aのサンプルがスリットに当たる回数が増えると、上のスリットを通り抜ける割合 の頻度が1/2に近づく、

 電子Aは上のスリットを通り抜けのが1/2という本来的な傾向性をもっている、

となります。

2確率の主観的解釈:確率は私たちの知識の性質を表していて、私たちの知識の状態を測定しています。

言明「電子Aが上のスリットを通り抜ける確率は1/2である」は、

 電子Aがどちらのスリットを通り抜けるかを確定的に知るための知識を全く欠いてい  る、

となります。

 量子力学で使われる確率について、客観的解釈をとるか、主観的解釈をとるかは、量子力学的な記述に関して哲学的に異なる立場を生み出すことになります。量子力学が不完全な理論だと主張し続けたアインシュタインは確率を主観的に解釈し、「神はサイコロを振らない」と考えました。

 量子力学と二つの確率解釈の関係をまとめると、次のようになります。

1量子力学での確率が客観的であるなら、量子力学的な記述は完全である。つまり、量子が上下いずれかのスリットを通り抜けるかを確実に予測することはどんな理論にもできない。

2量子力学での確率が主観的であるなら、量子力学的な記述は不完全である。つまり、電子が上下いずれのスリットを通り抜けるかを確実に予測することができる理論が可能である。

少々面倒な話になってしまいました。量子力学を知らない方には唐突で読みづらかったはずです。量子力学を知ってもらうのがここでの目的ではありません。物理的な世界に客観的に非決定論的な事象があることとその理由を知ってほしかっただけです。量子力学が正しいと認めるならば、客観的に確率的な事態が存在することを認めなければならなくなります。これが主張したい点で、客観的確率を認める証拠として量子力学が使われたのです。

(問)確率が客観的であるとはどのような意味でしょうか。

(問)次の各文がどのような意味で正しいのか述べなさい。

(1)世界の変化はいつも連続的である。

(2)対象の状態はいつも確定的である。

(3)いつも瞬間や地点が存在する。

そうか、歳をとったのか

母校の文化祭…

まあ、わざわざ同窓会が葉書をくれたのだし

ここで逃すのも惜しいので、何とか行く事にした。

門を通る…

…最後にこの門を通ったのが妹の文化祭だから

17年ぶりになる。つまり今の高校二年生が生まれた頃が

最後に…なる。

来賓名簿に記入する。同窓生の枠に名前を書く。

同期の人の名前が書いてあるが今一思い出せない。

多分相手が私の名前を見てもそう思うだろう。

恥ずかしいので、足早に校舎へ向かう。

親子連れの近隣の人々、或いは保護者、そして現役生。

現役生の友達の他校の人々、もしかしたら同窓生の夫婦。

そんな中にいる独身アラフォー男は…まあ苦しい。

校舎は土足で入れた。というより学校自体が一足制になっていた。

あの便所サンダルを今の生徒は履いていないのだ。

下駄箱がないので何となく違和感を覚える。

コモンスペース周りの構造がちょっと思い出と異なる。

真っ直ぐ会場の体育館へ行く、そして入る。

入学式と、卒業式に使う体育館。

ここから高校生活が始まって、ここで終わる場所。

今から23年前にここへ足を踏み入れて…

いろいろ感慨が沸くはずなのだが、いや、沸くと思って

それを期待して今回行ったのだが…沸かない。

ちらりと目の前に忘れられない人々が当時のままに

幻覚として現れてくれないかと思うが、ファンタジーの

ようには出てくれない。

板敷きの上にシートをかけている体育館はまさに

卒業式入学式仕様そのものだが、何も出てこない。

唯一「おっ」と思ったのは回転式の色ガラスで

カラフルな光線を出すライトが現役のまま

二階のベランダにおいてあった事だ。

ああ…あれは。あれを動かしていたのは…

同窓会の演目が始まる。

合唱部OBと助っ人の計10人による演唄である。

ちなみに観客は40人ほど。殆どの人の顔を知らない。

同級生だとしたら面影すら無いな、と思ったらどうやら

私より10年先輩の6期生がほぼ全員らしかった。

合唱部の歌はとても10人で出しているものとは思えない。

質が高く、ハッキリ言って観客の数がもったいない。

100人いてもいいだろう。

そうこうしているうちに、校歌となった。

「どうぞ壇上に上がってください!」と司会の人が言う。

しかし…これは苦しい。それまで聞いていた合唱部OBは

さすがに音程は完璧だし、声も通る。そこへ割り込むのは…

結局女性は十数人上がったが、男性は皆無だった。

そう、この校歌は男性にはつらい。音程が狂いやすく、

狂わなくても声として気の抜けたようになる部分がある。

私は現役のときにテナーだったが特に気の抜けた部分が目立つ。

…今から思うと、狂おうが間抜けだろうがでかい声で歌ってりゃ

よかったと思うから後悔先たたずである。

校歌が終わって。同窓会の演目は全て終了。

数十分後には現役生の軽音有志発表らしい。

「それは現役生の祭典さ」と思った私は…私だけではなく

全員が体育館を後にした。

その後…どうやら同窓会交流会が教室の一角で

開かれるらしかった。ほぼ全員が6期生の中で私は

16期生である。場違い…というよりは恥ずかしさで

参加せず、よくよく考えれば大変失礼な事に6期生を含めた

同窓生に一言も声をかけずにスタスタと学校を出た。

…もっと、何か感慨がわくと思っていた。

上手くない例えだが、自分の死体を見るような

そんな感慨がわくものだと思っていた。

それはとても残念だ。だが、単純に私は歳をとって

しまったのだろう。